前のお話
…やられた。
私は状況を徐々に把握していく。
部屋は急に暗くなり、私は四つん這いのような姿勢になっているのがわかる。
両手を地面から離して立ち上がろうとするも、そのような動きを身体が受け付けない。骨格や肉付きからして変わってしまったようだ。
低くなった視点で周囲を見回す。
先程覗いていた水晶の扉が見える。その部屋の先は明るく人影が見える。
一方で今いる部屋…は薄暗く、地面も薄く藁が敷かれているようにみえる。
一瞬にして部屋を移動してしまったのだろうか。
…違う。私は分かっている。
水晶を覗いた先にいたのは子牛で、その子牛がいた場所に私はいま、立っている。
先程から悲鳴をあげるのを避けているのも、分かっているからだ。
人間と違い、後方まで見えてしまうこの違和感のある視界。
四つん這いに特化した骨格、そして…この視界の隅に映るマズル。
(私…あの子牛と入れ替わっちゃったんだわ)
試しに言葉を発しようと口を開いてみると、そこから出てくるのは長い舌。
うまく口を動かすこともできず、ンモ…という牛特有の鳴き声がでそうになり、思わず口を閉じる。
(…だめ、どうしたらいいの…)
考えていると、ギィ…と扉が開く。
その先にはやはり、というか当然のように、花梨と花梨に似た顔立ちの女性が立っていた。自分を客観的に見るのはまるで動画のようだな、と思った。
「んんもおおおおおお!」
すると急にとなりに立っていた大きな牛…が騒ぎ出す。
目の前の花梨と私を見て急に興奮し始めたのだ。
ジャララ!
よく見るとその牛の足には大きな鎖が着いており、それが背後の壁に結び付けられている。
そのために暴れることができず、目の前の花梨も慌てる様子はない。
自分の脚にもよく見てみると、同じように後ろ足に細い鎖が結び付けられているようだった。
ムダな行為にも関わらず、その大きな牛は花梨に向かって飛びかかろうとするのを止めない。
(…まさか)
「どう?新しい身体は?」
そんな興奮した牛を無視し、私に向かって見下ろすように話しかけてくる花梨。
どうやらあの水晶を覗くとこうなることを、花梨は知っていたようだ。
(いや…違う)
そうだ。
花梨の様子は最初からおかしかった。
私を見ても反応が薄く、その受け答えもどことなく幼い感じ。
そして花梨が"新しい身体"と言った直後、暴れていた牛は急におとなしくなった。
花梨の隣にいる人物に気が付いて一瞬たじろいだ。
「よかったね。妹さんと再開、できて」
そして悪い予想。
妹…花梨?
大きな牛がゆっくりと、こちらへ視線を向けきた。
ただの家畜には存在しない、理性の灯った眼。
「あいたかったんでしょ?」
花梨の言葉はその予想を確信へと変えていく。
…どうやら花梨も身体を奪われたのだ。
この隣に立っている大きな牛が…花梨なのだ。
「じゃあね。子供にいろいろ教えないと、だから」
そういうと"花梨"は、"私"の腰に手を回す。
びくっと震えた"私"をなだめるように、ゆっくりと部屋から出ていこうとする。
(ま、まって!)
呼び止めようと叫んだが、小部屋に響き渡ったのは生まれたばかりの子牛の鳴き声だった。
ーーー
あれから数日。
私は今、母牛…花梨の張った胸から出るおっぱいを飲んでいる。
なぜなら子牛の身体の私にはまだ何も与えられないのだ。
花梨はこの部屋から外に連れ出され食事をもらっているようなのだが…。
もう1つ理由があった。
花梨が苦しそうに鳴き始め、身体をこちらに擦り寄せてきたのだ。
後からわかったのだが、どうやら胸の張る痛みに耐えることが難しいようだった。パンパンに張った胸は、少し加えるだけで勢いよく乳が吹き出てくるのだ。
私自身、抵抗があったのだが花梨から出る母乳は非常に甘く、そして乾いた喉と空いたお腹に潤いと満腹感を与えてくれた。
花梨も乳を飲んでくれると痛みが引き、そして気持ちがいいのか特に嫌がっている様子もない。
飲み終わった私が、乳から離れると花梨はこちらの身体に埋めるかのように舐め回す。
(ちょ、花梨。くすぐったいってば)
その勢いの良さにバランスを崩し藁の上に倒れ込むが、花梨はそれでも構わず私を舌で舐め回し続ける。
まるで本当に母親牛になってしまったかのような花梨だが…。
「ンモウ…」
しばらくすると落ち着いたのか、その前足で藁をいじり始める。
ゴメン、となぞられた藁の跡。
私もイイヨ、と返す。
それは、言葉が発せられなくなった私達に残された意思疎通の方法だった。
あまり器用に動かせるものでもなく、狭い可動スペースでは単語レベルの短い文章しかかけないが、それを繰り返して花梨から現状を把握することができた。
花梨が身体を奪われたのはやはり旅行でここを訪れたときだったらしい。
すでに1ヶ月程、この牛の身体で過ごしていたのだという。
(つまりはこの身体…も産んだってことよね)
あと数年もすれば人間としてできるはずだった出産を、家畜の身で経験させられた花梨が不憫でならない。
そしてこの牧場の家畜はほとんどが元人間、そして従業員はその人間の身体を使っている元家畜…なのだそうだ。
私が初めて訪れた牧場の従業員の中には、幼い小学生の子もいたような気がする。
(酷いことをする…)
でも花梨みたいな帰ってこない人間が増えたらバレるのでは、と思うのだが…。その疑問もしばらくすると解消された。
その数日後に私達の前に現れたのは"私達"だった。
花梨と"私"。
あのときの”私"はどうみても理性も知性も感じられない、ボゥっとした様子だった。
だが今は花梨と同じようにテキパキと動き、私達の部屋の清掃をしていく。
「おかあさん、ここは?」
「そこにわらを敷いてあげて」
「うん」
彼女たちは人間の言葉で意思疎通をしているのだ。
本来であれば姉妹であるはずの2人。姉が妹に対して"おかあさん"と呼んでいるのは滑稽な様子だった。
(これから一体…どうしたらいいのかしら)
早く元の身体を取り戻したい。
だが、檻の中に閉じ込められた私達は自由に動き回ることができない。
どうにかしてあの水晶の部屋へたどり着く必要があるのだが…。
私の失踪はおそらく両親の知るところになっているだろう。
だが、花梨の部屋にあった旅行の日程表は私が持ち出してしまっている。
両親が花梨の部屋に訪れてもこの牧場へたどり着くことはできないだろう。
姉妹の行方不明となれば警察も捜索願いで動くだろうか。
(牧場にいる従業員がこうして居続けていることを考えると…そっちの線に期待するのは無理かも)
家畜が人間の言葉を使えるようになるのだ。
そういったことをうまく回避するような知恵があるのかもしれない。
(または、あの社長…か)
訪れたときに対応した老人。
今考えれば怪しいところだらけだが…後の祭りだ。
私はため息をつく。
嫌でも思い知らされる牛の身体の不便さ。
手、というものが普段の生活でどれほど重要だったのかがわかる。
この蹄では扉を開けることも、物を掴むこともできないのだ。
そして牛の寿命は知らないが、おそらく人間よりは遥かに短いだろう。
いや、それよりも家畜、乳牛としての役割を果たせなくなればその瞬間にお役御免ということもありえる。
(…考えろ、考えろ、私…)
この身体のまま生きるのも、そして死ぬのも、絶対イヤだ。
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