大きな建物が見えてくる。
広い平野の中にあるその建物は明らかに異質であった。
「うわあ、なんか工場みたい」
「うちの牧場ってイメージとかけ離れてるよね」
私たち農学部の学生は、1年目に課外研修という名で、学校所有の牧場のお手伝いを長期間にわたって行うことになっている。1年間の大半を使ったその授業は、最先端の科学技術を体感できるとあって大変人気がある。授業の内容は現地で説明を受けるまでは非公開となっており、機密性の高さもどきどきさせる。
先輩たちも研修内容をどれだけ訪ねても答えることはしてくれなかった。
牧場には家畜用の広い放牧地と併設して、非常に厳重に管理されている無機質な建物が建っている。1F部分はピロティとなっており、太い柱が非常に短い間隔で並んでいるそれはどんな津波はもちろん、火災、地震や土砂崩れなどの災害が起きても耐えそうである。
「俺の兄貴が勤めてるデータセンター?っていうのがこんな感じだったな」
「警備員もいるわね」
「こんなところで最先端ノウハウが学べるのはいいよね」
30名いる私たちのクラスは建物を見て思い思いに感想を言い合う。
私も期待が高まる。いったいどんな研修が行われるのだろうか。
「VR?」
施設の職員から説明を受けた私たちは一様にがっかりした雰囲気を醸す。
「はい、まずは施設内にある設備を利用して、VR体験をしていただきます」
「今時VRかぁ」
「流行んないよね」
ちょっとがっかり。
VRなんて数十年前に実用化されて家庭への普及率は95%、今ではゲームは当たり前に、さらに医療や芸術、そして旅行まで済ますことができる。
牧場体験だって ソフトウェアさえ有れば家で体験できるだろう
「もちろん没入型VRですので、5感すべてをリアルに感じられますよ」
今時没入型じゃないVRなんて流行んない。
私たちはあからさまにがっかりしてため息をつく。
「あはは、毎年みなさんはこの説明でがっかりしますけどね」
職員さんは苦笑する。
「うちのVRは最先端技術研究なので、普段できないこともできるんですよ」
…なんだろ?
私たちは職員に促され、VRルームへ足を踏み入れる。
ずらっと並ぶ卵のような形をしたカプセル型コックピット。
家庭のVRはヘッドマウントディスプレイを頭に装着し、横になるだけのものだ。その光景を見て私たちはちょっと期待を高める。
コックピットに横になると、職員たちが私たちの手、足にも各種センサーをつけていく。
そして最後に大きなチューブが何本も生えているフルフェイス型のバイザーを頭にセットされた。
「しばらくするとシステムが稼働します、このシステムは皆さんが普段使用されているネットワークとは独立していますので、パーソナルアバターの利用はできません。まずはVR中に利用するアバターを一覧から選択してください」
パーソナルアバターとは私たち個人個人が持つことができるVR空間上の姿だ。
メインデータバンクに登録しておけばあらゆるVR空間にそのアバターで入ることができるのだが、どうやら今回はそれができないようだ。
ブーンという低い起動音。
一瞬表示されたロゴは私たちがよく知るVRシステムが動くOSのものだったが、バージョンは世間が普段使用しているものとは違うものだった。
Select Your Avator
簡素なシステムフォントで表示された指示。
その下にはこれまた簡素なUIで30~40ぐらいのアバターのリストが表示される。
アバターのサムネイルイメージは一切表示されていない。
(C1,C2…C8。SもPも…8まで。Gはちょっと少なくて5まで。Hは一番多い…15まで)
頭文字と数字の組み合わせから、同種のパターンのアバターがいくつか用意されているようにも見える。
しかしどのアバターを仮選択してみても簡易な情報すら表示されない。
(うーん。せっかくだからかわいいアバター使いたいけどこれじゃあわかんないな)
そう思っていると、番号の若いものからどんどんグレーアウトしてゆく。
どうやらほかのクラスメイトが選択確定をして言っているようだ。
(同一アバター禁止ってわけね)
しょうがないか、と思い私はP5を選択し、確定した。
選択した瞬間全身の感覚が吸い出されるような、放出されるような感覚にとらわれる。
リアルの肉体と脳の疎通をカットするのが目的だ。
そうしないとVR体験していると、狭い部屋のなかでリアルの身体は暴れまわるということになってしまう。
視覚が戻ってきた。
目の前には緑の牧草地が広がっている。
私は周りを見回す。
(すごい、リアル)
むせかえるような獣の匂いと、青々とした草の匂い。広大なフィールドから感じる空気感はどのVRでも体験したことがないほど現実的だった。
(あれ、ちょっと視点が低いかな。身長設定どうなってるんだろ… )
VR空間では右手で特定のジェスチャーをすることでシステムメニューを開くことができる。VR上ではジェスチャーや音声、そして心で強く願うことのいずれかでシステムメニューを呼び出すことができる。
私はいつも通りに右手を上げようとする。
(ってなにこれ!?)
私の目に入ったのは短い白い毛に覆われた手。
人間のような自由になる指はなく、歩行と自己を支えることに特化した手…いや前足。
「フゴっ!!!」
ちょっと!だれか!と叫ぼうとしたのだが私の口…いや鼻?からでたのは低い獣のような鳴き声。
(え?え?なにこれ?)
落ち着いて私はメニュを開くジェスチャーをする。
システムメニューが表示され、私は安堵する。
(アバタープロフィール、表示)
視線でオブジェクトを選択し、メニューを掘り進む。
種族:豚
性別:雄
年齢:0.5歳
体長:80cm
体重:100Kg
(た、体重100!???ってそうじゃなくて)
ゲームであればよく使用される種族という項目。
それ以外の分野ではそもそも人類、人間前提なので種族という項目など存在しない。
そしてその項目に表示された見慣れないパラメータ「豚」。
(豚…まさか)
まさかこの施設、認可が下りていないアバターを使える…?
メインデータバンクへ登録できるアバターには実は制限がある。
それは自己の体型から大きく違うものは選べないということだ。
これはVR空間から戻ってきたときに感覚のズレが脳への混乱、最悪の場合生活に支障がでるかもしれないという可能性があるからだ。
最近は段階的にその制限も緩くなっていて、身長や体重、体型が自身の体型から±20%ぐらいで比較的自由となっている。唯一緩和されていないのが、性別変更と人型以外のアバター使用だった。
『みなさん、システムは正常でしょうか。ああ、動物になってしまっているのは異常ではないですよ』
視界にシステムメッセージが浮かび上がる。
どうやら本当にその予想で間違いないようだ。
『まずは皆さんに、牧場で飼育されている動物たちの気持ちを体験していただきたいと思っています』
私は、Pというアバターを選択した
恐らくPigの頭文字。
そう考えるとCは牛、Sは羊…だろうか。GはGoatでヤギ。
Hは…なんだろう。数が多いから鶏(Hen)かな…。
(しまったなあ、そうと予想出来たらもうちょっと考えて選んだのに)
性別に表示された「雄」という文字にも戸惑う。
私は女性である。できれば種族は変われど同性がよかったなと思う。
Henであれば雌鶏なのは確定だから、そのほうがよかったかもしれない。
『なお、生徒の皆さんはシステムメニューから毎日、日報の提出が単位の条件となっております。このVRでは体調やケガなどの状況も表現され、実際に行動に制限をかけてきます。必要があれば日報で報告を行い、対処をうけてください。またメッセージングは利用できませんので、テキストコミュニケーションはできません』
メニューに日報という項目がポンとはじけるように表示される。
そしてメッセージングができないということは、動物になっている人同士で言語によるコミュニケーションができないということだ。これは誰が何になっているかわからないし、それを確認する方法もないということでもある。
『毎年のことですが、1年のうちどれくらいがVR体験期間かは告知しません。これは1日1日をしっかりと体験してほしいという意図があります。終わりが近くなってくると近づいてくる開放感からか適当に過ごす人が増えてくるので』
システムメニューに表示されているはずの「ログアウト」アイコンがグレーアウトしていることに気が付く。通常のOSではありえないことだ。
(え、24時間ずっとなの?)
寝る前には元に戻ることができると思っていた私は驚く。
つまり最大でも1年間この豚のアバターのままVR体験し続ける可能性があるということでもある。なるほど、事前に内容を教えなかったのもこのあたりに理由がありそうだ。
人型以外のアバター、性別、そして長期間。どれもいまだ検証段階だというのに本当に大丈夫なのだろうか…。事前に聞いてたら参加を躊躇したかもしれない。
そして、ネットワーク的に隔離されたこのVR上で長期間このままということは、家族に連絡が取れないということでもある。
研修のことは伝えてあるから大丈夫だとは思うけど、妹は心配するかもしれない。
『説明は以上です。みなさんの現実の身体は、最新の医療メンテナンスとセキュリティで保たれているのでご安心ください。なお、VR上であなたたちをお世話する職員やNPCはあなた達を人間としては扱いませんのでご注意ください。それでは。』
システムメッセージが徐々に消えていく。
もう職員からのメッセージはないようだ。
再度システムメニューを呼び出す。
アバタープロフィールと日報、そして設定アイコン以外は表示されていない。
(うーん、試してみるか。ログアウト!)
強く心に願うが、元の身体に戻るような雰囲気はない。
(元の身体が危険になったら戻ることはできるのかな、ちょっと不安)
あの強固なセキュリティと災害対策がされた建物ならどうにかなることはなさそうだが、病気という可能性もあるし、若干不安にもなる。
(いちおう、音声命令も試しに…)
試せることは試してみる。
今、自分が何ができるのかを把握することは重要である。
システムコール、プロフィール表示。
「フゴゴゴ、プギぃ」
だめだ、人語を発声できない。
音声コールによるシステム操作自体ができないようだ。
まいったね。
―続く。
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