―終わった。
私は判決理由を上の空で聞いていた。
2ヶ月前、塾の帰りに警官に呼び止められ、カバンから出てきた見知らぬ錠剤。
その場で拘束・逮捕され、その後の薬物検査では髪の毛から陽性反応が出たと伝えられた。
そんなもの知らないし、摂取したこともないという訴えは届かず、私は今ここにいる。
反省の色無しと見られたのかもしれない、でも身に覚えがないのだ。どうしようもない。
―代替労働
反省・更生を促すのに適した刑で、脱走の心配もなく、人手もかからない為、
現在の犯罪増加・刑務所の飽和を解決するために積極的に採用されたと聞く。
労働内容は多種に渡るらしいがよほどの凶悪犯罪者でなければ面会も認められている、そんな刑だ。
「刑」、そんな言葉に縁のない、優等生だった私がなぜ…。
「1年で何とか済みました」
この手の薬物の犯罪なら3-4年は普通なのだと続ける弁護士に私は事務的にお礼を言う。
凶悪犯罪者なら数十年とかありうるんですよ、と去り際に言った。
私は犯罪者じゃない…と言い返したかったがどうにもならない。
少なくとも1年は制服を着る機会もないのだ、
休みのオシャレをすることも、友だちと遊ぶこともできないのだ。
そんな沈んだ気持ちのまま、私は眠りについた。
翌日、初日の服装はなんでもいい、と言われたので両親が持ってきた衣装の中から動くのに問題なさそうを選んだ。
上はパフのついた白のブラウスで下はデニムのショートパンツに黒のタイツ。
あとはすべて着替えとしてカバンに詰め込み、車に載せた。
「今日はあなたの労働場所までご一緒します」
同乗した女性…まあ見張りだろう。私より背が高く、スーツをピシっと着ている。
警察の関係者なのだろうか。
私はどこで、何をさせられるのかを聞いてみたが、
「どういう労働をするかは現地に行かないとわからない」なのだと。
そんな適当な刑なのかと考える中3時間、ようやく車がついた先は牧場だった。
周りを見回すと牧草地帯が広がっており、牛や羊が十数頭、放牧されているのが分かる。
牧場で飼育の手伝いでもさせられるのだろうか…。臭いの嫌なんだけどな。
車から降りた私達をこの牧場の主っぽい人が出迎えてくれた。
髪も髭も白髪でもじゃもじゃの恰幅のいいおじいさんだ。
「ようこそ、今日からよろしくお願いしますよ」
そう私に語りかける。なんだかやさしそうなおじいさんだ。
この手の管理主はテレビだと怖いのが相場だったので、私はちょっと安堵する。
不安が多少薄れていく中、おじいさんは同乗してきた女性に向かってこういった。
「いま、…が1頭空いてますので、そちらを彼女にはやっていただこうと思います」
---
私がこの牧場に来て一ヶ月が過ぎた。
いまだにこの生活に慣れることができないでいる。
むしろ慣れてしまったらダメだと頭のなかでは理解しつつも、いっそのこと全てを忘れ身を委ねてしまったほうが楽なのではないかと考える自分がいる。
牧場の朝は早い。
日が昇って1時間ぐらいで、掃除当番の人が通路を履き始めるからだ。
周りも慌ただしく起き始める。
私もその喧騒の中、閉じていた目をゆっくりと開く。
目ヤニが視界に見える。目がとても痒い。
ゆっくりと立ち上がる。おしりが痒い。
でも今の私には目やにを自分で取ることができない。
おしりをかくことが出来ない。
なぜなら今の私は…
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
「いま、牛が1頭空いてますので、そちらを彼女にはやっていただこうと思います」
おじいさんは確かにそう言った。
牛?牛の世話をするのだろうか。私は首を傾げる。
「空いているというかですね、これぐらいの、2歳半の子供産んだばかりの牛なんですが。これがちょうど入ったんですわ。知り合いの社長が是非使ってやってくれとね」
おじいさんは牛の大きさを手振りで示しつつ喋り続ける。
「なるほど、では対象は牛ということでこちらの書類は進めておきますので…、早速始めますか?」
女性はそう返答しながら、手持ちの書類にさらさらと何かを記入をしていく。おじいさんはうなずくと私に向き直り、
「あちらへ一緒に来てもらえますかな」
と牧場の一番手前の建物を指し示した。
「これがその牛です。先日の測定では500kgです、出産してから1ヶ月ぐらいですが、まあ大丈夫でしょう」
建物に入ると、一番手前の牛を見せながらおじいさんはそう言った。
「なるほど、体重が500kgで、体高が150cmぐらいですかね…名前は…アリスちゃんね」
女性は牛の耳についた鑑札を見ながら書類に記載し続ける。牛の情報なんて書いてどうするのだろう。
「あなたは150cmで50kgぐらいかしら?10倍以上なんて大変ね」
確かに10倍以上もある牛を私なんかがお世話できるのだろうか。こんな力仕事なんてやったことがない。私はそう述べると
「ふふ、そうね」
と微妙な含みを持った笑顔を私に見せた。
おじいさんは準備があるといって、と部屋の奥へ進んでいった。
女性は電話でどこかに連絡を取りながら書類への記載を続けている。
私は何もすることがないので、アリスと呼ばれる牛を観察した。
大きい。視線の高さは私と変わらない。アリスと目が合うがこちらにはあまり興味がないのか
モーと鳴くと体を横に向けてしまう。
その反動なのか、アリスの匂いが私の鼻に入る。思わず顔をしかめてしまうほど臭かった。
洗ってないのだろうか。
私は鼻をつまみながら、アリスの揺れてるしっぽを眺め続けた。
「お待たせしました。コレをつけてください」
奥から戻ってきたおじいさんは私にゴムのリストバンドを渡す。
市民プールとか、銭湯にある手首につける鍵のような、そんなやすっぽい作りだ。リストバンドには表裏に貫通するように小さな石が付いていた。透明の、安っぽいガラス石だ。
牧場の関係者だと分かるようするためかなと、私は特に何も考えずにリストバンドを左手首に通した。
「その石はね、あなたの記憶と意識を吸い取るのよ」
いつのまにか書類が書き終わったのか、女性は私の隣へ来ていた。
吸い取る?私は首を傾げる。話についていけない。
「ええ、石をよく見てみて」
手首を返して石を見る。透明だった石は、水に白の絵の具を混ぜた時のように色が変わり始めていた。私はリストバンドと、女性の言葉を交互に意識する。
とても嫌な予感がする。リストバンドを外せ、と心のなかで何かが言っている気がする。
私は右手で左手首のリストバンドに手をかけ―
「いま外さないほうがいいわよ、言ったでしょ。吸い取ってると。廃人になりたい?」
ビクッとなり、私は女性のほうに顔を向ける。
女性は自分のポケットからゴム手袋を取り出し両手にはめている。
「大丈夫、あなたの身体の意識、脳の記憶は空っぽになっちゃうけど、その石と体が触れてる限り、あなたは普通でいられるわ」
私は冷や汗が止まらない。何、何が起きてるの?
石はマーブル模様がだんだん濃くなり、やがて真っ白になった。
私はリストバンドを外すことを忘れ女性を見続ける。
「説明したほうがいいかしら。今、あなたの意識…魂といったほうがいいかしら。その魂と脳に記録されていた記憶はすべてその石の中に移動しているわ」
淡々と女性は説明しているが私には全く理解が追いつかない。
「要するに、今、あなたの本体はその石ってこと。体のほうは抜け殻ね。ふふ、ヤドカリみたいね」
私は女性から目が離せない。
「ただ、その石、身体から離れると何もできなくなるの。視界も聴覚も、五感の全てを失っちゃうの、注意してね。」
女性は淡々と続ける。どこが楽しんでるかのようにも見えた。
私の両足が震える。今すぐ逃げ出したかった。
「よし、アリスも準備ができたぞ」
おじいさんがアリスを引っ張ってくる。
アリスには私と同じようなゴムの首輪をしている。
首輪には私と同じように真っ白な石がついている。
「この石はね、生体と接触しているとその生体を自分の身体のように操れるの。だから今のあなたは石の力で元の身体を操ってるってことになるわね。わかるかしら?」
そう言いながら女性は私の左手首をつかみ―
「さて問題、あなたの石をアリスちゃんにつけたら、どうなると思う?」
石に手をかけた―。
私は暗闇の世界へ投げ出された。
私はどれくらいそうしていたのだろうか。
暗闇の中で、何も聞こえず、アレだけ臭かった匂いも失せ、ただただ宙に浮いているような感覚で、ただただぼんやりと漂い続けた。
時間の感覚すらなく、漂っている私に急に光が差し込む。
「起きたようだぞ?」
おじいさんの声が聞こえる。
私はいつのまにか床に倒れていたようだ。身体がとても気だるく、重い。
あの不思議な石は夢だったのだろうか…私はぼんやりとした意識の中、
立ち上がろうとしたが身体がしびれているのか、うまく動かせない。
「まだ慣れないだろうから、そのままでいいわ」
女性の声が聞こえる。
私はうっすらと眼をあけたが、眼に涙がたまっているのか、視界がぼやけている。
拭おうにも身体が動かせないのでそのままでいるしかない。
「涙で視界が見えてないかしら?ま、いいわ、触りたくないし。規則だから刑について説明するわね」
女性はコホンと咳をして、淡々と述べる。
「あなたはこれから1年間、代替労働をしていただきます。対象は牛のアリスちゃん。つまり、あなたは1年間アリスちゃんとして生きて、そして家畜として働いていただきます」
―は?
私の意識が急速に覚醒する。
石のことを思い出す。あれは夢じゃなかった?
―あなたの石をアリスちゃんにつけたら、どうなると思う?
いや、そんな馬鹿なことがあるわけがない。
必死に視界を女性の声の聞こえた方に向けると、
女性の後ろに1人、やや背の低い、白い服を着た女の子が椅子に座っているのに気がつく。
私の目はまだぼやけており、顔ははっきりと見えない。女の子は眠っているのか、脱力した状態で椅子にもたれかかっている。
「―それでね、ここに可哀想にも空っぽになっちゃったあなたの身体があるんだけど―」
女性は椅子へ近づいていく。
空っぽ?私の身体…?私は考えたくなかった、悪夢であればいますぐ目を覚ましたかった。
これは夢だ、夢なのだ。
女性は手に白い石を持っている。
「このまま置いおくわけにもいかないので、代わりにコレをつけてあげるわね」
まって、その石は…その石の中身は…!
私は叫ぶ。ブモォォォォと自分では発したことのない、低い低い声が出て私は驚愕する。
「うふふ、何を言ってるのかわからないわ。ま、言いたいことはわかるけど。そうよ、中身は今あなたが使ってる身体―の元々の、アリスちゃんの意識よ。代わりにあなたの身体をあげないと、不公平でしょう?」
女性はそう言うと石をリストバンドへ嵌め込んだその瞬間―女の子の目がパチリと開いた。
女の子は、ゆっくり立ち上がり、両手を広げ、自分の服装、身体を確認するようにくるくる回る。手を自分の顔に当て、耳をさわり、そして肩、胸、足と下へ撫でていく。
ひと通り自分の身体を触った後、こちらを…私を見下ろした。
女の子はゆっくりこちらへ近づいて屈み込み、私の眼の涙を手で拭い取る。
私ははっきりと、その女の子を顔を見た。女の子は口を開く。
「私の代わり、よろしくお願いします、アリスちゃん」
私の顔で、私の声で、微笑みながらそう言った。
朝の通路掃除が終わり、当番が小屋から出て行った。
その後しばらくして、ぞろぞろと小屋に人が入ってくる。
この牧場では1頭の家畜に対し1人の作業員がつく。
入った当初は代替労働がなにかわかってなかった私でもいまはもう分かる。
私は牛の代わりに牛として働き、牛は私の代わりに牛を世話するのだ。
人手でかからない刑…自分が自分を世話するのだから当然だ。
「顔、吹くからおいで、アリスちゃん」
手にタオルを持った私が私を呼ぶ。
牛の私はのそのそと彼女に近づく。これでも一生懸命歩いているのだが、500kg以上ある牛の身体は一歩一歩の足取りが重い。
「大丈夫、アリスちゃん。慌てないで」
拭いてもらったそばから眼から涙があふれてくる。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
「私の代わり、よろしくお願いします、アリスちゃん」
私はその声を聞いて叫び、なれない身体でのたうち、しばらく落ち着くまでにはかなりの時間がかかった。
さんざん暴れて息が切れたあと、ノタノタと慣れない四つん這いで立ち上がりハァハァと息をするの私を、女性は冷たい目線で見下ろす。
「落ち着いたかしら?説明続けるわね」
といいながら女性がカバンから札を取り出す。
札にはアリス、と書かれており、その下に私の顔写真が張ってあり、その写真の横には私の名前と年齢が記載してあった。
「これがあなたの元の身分を示す名札ね、無くさないように」
と私の耳についてる鑑札に括りつけられた。
「ふふ、似合うわよアリスちゃん」
女性は手をハンカチで吹きながら私から離れる。
「わかってるとは思うけど、脱走なんて考えないようにね。下手に脱走したら一生その牛のままよ。牛のままでもいいなら止めないけどもね…」
女性は早口で私に説明する。
…脱走しても牛の姿のままであればどうしようもない。
脱走の心配がない刑というのはこういうことだったのだ。
「あと、その首輪、一応力いれないと石は外れないようになってるけど、外れちゃうと…まあどうなるかは予想つくわよね。せいぜい気をつけて頂戴」
「そろそろいいですかな?」
おじいさんが女性に話しかける。
「すいません、あと少しで終わります。ざっと喋っちゃいますね」
女性は書類をめくる。
「面会に関しては3ヶ月過ぎてから可能よ。ただし、入れ替わっていることは面会者には知らされないわ」
「牛のあなたが病気、怪我、出産などする場合でも刑はそのまま継続します。ただ容態が危険と判断された場合、別の家畜が割り当てられることはあるわ。ニワトリとか豚とかもしれないけど」
「代替労働中に牧場に損害を与えたり、人間に危害を加えた場合、刑期が延長されるから、気をつけて」
「刑の間は大部分の基本的人権は剥奪されるわ。教育を受ける権利とか裁判権とか。聞いたことあるかしら?」
矢継ぎ早に私に告げられる非情な現実。
面会は牛が代わりにするの…?そんなの無理に決まっている…。
病気になっても怪我しても1年間はずっと家畜の身体でいつづけなければいけない…?
そして今まで当たり前にあった権利を奪われてしまった、私。無実なのになぜこんなことになってしまったのだろうか。
私は顔を地面に落とす……大きな自分の体と、2本の蹄が目に入った…。
あとは…と女性は続ける。
「あなたの世話は元の自分の身体が行うことになるわ。もともとが知性の低い動物でも、石の力を使えば体に残っている情報―記憶の残滓を呼び出せて、それなりに記憶や性格、口調はトレースできるから、ちゃんと世話できるのよ。すごいでしょ」
女性はそういうと私の身体に向かって「貴方、自己紹介できる?」と問いかける
私の身体は「はい、私の名前はナオです。15歳で、得意な科目は数学です、弟が1人います。よく遊ぶ友達はサキちゃんです」とはにかみながら答えた。
私は驚いて顔を上げる。そんな、これではまるで私がもう一人いるみたいじゃない…。
「安心した?ふふ、面会が来てもこれで大丈夫よ、よかったわね」
逆に―と女性は付け加える。
「あなたが、牛の脳からいろいろ引き出すこともできるわ。牛の身体の動かし方とか…反芻の仕方とか。よかったわね」
そう言って女性はおじいさんの方に向き直ると、「以上です、私はそろそろ戻りますのでよろしくお願いします」と告げ、おじいさんと小屋から出て行った。
車のエンジンが遠ざかっていく。
それを見送ったおじいさんはやれやれと戻ってくる。
「ま、1年なら短いもんさ。うちでも10年代替労働に服している男もいる。良い弁護士に出会ったな」
おじいさんは棚から太めの紐を取り出しながら言う。
私はそれに反応する気力もなく、放心して四足で突っ立っている。
おじいさんがこちらへ近づいてくる。
「1年間か…もしかしたら1回ぐらい出産があるかもしれんが、まあなんだ、これも経験だ。おい、ナオちゃん」
私は名前を呼ばれ大きな身体をビクっとする。全身の肉が揺れるのを感じた。
「嬢ちゃんじゃないよ」とおじいさんは笑いながら「私の身体」に紐の片方を手渡す。
おじいさんは私に向き直り、もう片方の紐を私に括りつけていく。
「この小屋をでたらわしから話しかけるのは無しだ。嬢ちゃんは家畜だからな、それ相応に扱わせてもらうよ。いくぞアリス」
おじいさんは私のおしりをパシーンと叩いた。
―私の家畜としての長い生活が始まった。
私の身体―もういいや、ナオと呼ぼう。
ナオは私の顔を吹き終わった後、私をつないでいる紐をとり、移動を促す。
私もそれに逆らうことなく、朝の日課を行うため、移動する。
「じゃ、アリスちゃん、お乳取るね」
アリスは私と交代する前に出産をしていて、その…お乳がでる。
最初、私は恥ずかしさに耐えられず、暴れて拒否をしたのだが、その後乳房の痛みに耐えられなくなり結局搾乳してもらい、それ以降は素直に従うことにしている。
私はされるがまま、搾乳ユニットを乳房に取り付けられた。
もう1ヶ月となると、取り付けられるためにはどうしてればいいのかが分かる。
他の牛も搾乳はおとなしくされている。
それはその…気持ちいいのだ。認めたくないけれど。牛の生活は人間だった時と比べてできることがなく、食べて、歩いて、寝て…のくり返しだけどこれだけは悪くない、と私は思ってしまっている。
私は、その気持ちよさに溺れている私を見る、ナオの冷めた目には全く気が付かなかった。
―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―
ナオは紐を持ったまま小屋を出る。
紐につなげられている私はもちろんそのまま引っ張られ、歩かざるを得ない。
牛になってまだ1時間たっていないのに、4つ足に戸惑うこともなく歩けている自分に驚く。
これが牛の脳を利用するということなのだろうか。
ただ、知識を利用しているだけなのか、自分の記憶と食い違う部分で違和感を覚える。
例えば思った以上に狭い歩幅や、勝手に垂れるヨダレ、ゆらゆら揺れるしっぽの感触には全くといっていいほど慣れない。それに、このお腹と後ろ足付近にある…というより挟まっているといったほうが正しいぐらい大きな乳房の存在が違和感を大きなものにしている。
「人間って、とても不思議ですね、アリスちゃん」
私の横を歩いているナオが話しかけてくる。
「なんていうか身体が軽くて、動きやすくて。2本の手が自由に使えるのが、すごい新鮮です。アリスちゃんもいま新鮮な気分かな?って今のアリスちゃん人間の言葉はちゃんと理解出来るのかしら」
私はムォォォォと声を出す。最悪よ、元に戻して、と言ったのだが言葉はでてこない。
「あ、理解できるんですね、よかったあ」
こちらからの言葉は通じてないけどね…と私は心のなかで愚痴る。
ナオは顔をあからめながら
「後は…おっぱいが軽いのがいいです。私は、サキちゃんよりおっきいって言うか…平均よりおっきいってのはわかってるんですけど…アリスちゃんと比べると、ほんと楽で」
―勝手に記憶を漁らないで…と言っても通じない。
代わりに、数倍でかい乳房をもつことになってしまった私は、歩くたびに大きく揺れるその感触に僻意する。
先導しているおじいさんが喋る。
「ナオちゃん、あんたが話しかける分には全然構わない。どんどん話しかけてやってくれ。それがこの代替労働、という刑の要素の一つでもあるんだ。常に話しかけることで自分が家畜であること、身体を奪われていることを認識させ、反省を促させることができるんじゃと」
ナオは困った顔をしながら
「…そうなんですね、その、私の代わりをやるというのが人間の刑になるっていうのがまだあまり理解できてないんですけど…おじいさんがそう言うなら、私なるべく話しかけるようにしますね」と答えた。
私はその後、牛舎のスペースの1つに入れられた。
持っていた紐を柱に括りつけると、おじいさんとナオはなにやら作業着がどうやらという話をしながら出て行ってしまった。私の意思から外れ、勝手に動く私の身体を見送りながらあのブラウス、お気に入りだから汚さないうちに着替えて欲しいなといまやどうでもいいことを考える私。
牛舎には人影もなく私1人しかいない。他の牛のスペースに牛が1頭も居ない……いや、私は牛になっちゃたから「1人しか」じゃないし、「1頭も」じゃないのか…と私は変なところで冷静に考えて、ため息をついた。
私は自分の周りを見渡す。
通路と牛のスペースの間には水平な2本の鉄の棒が柵となっている。
人間であればこんなのくぐり抜けたり、飛び越えたり余裕なのに、私の今の身体は大きく、鈍い。
すこしくぐり抜けてみようと試してみたが、すぐに諦めた。
こんな鈍重な身体ではそもそも脱走しようなんて気すら起こせない。仮に外に出たとしても牧場から出る前に捕まるのがオチだろう。
仮に外にでても野犬とかに襲われたら…いや、もう考えないでおこう。
そもそも元の身体は人質みたいなもんだし、牛の私では自分の首輪についている石を触ることすらできないのだ。
おじいさんとナオはまだ戻ってこない。
私は立ってることに疲れてしまい、足をうまく畳み込み、座り込む。
やはり足に負担がかかっていたのだろうか、座ることで足がとても楽になった。
体重…何kgだっけ…。
私はまさか自分がこの身体になってしまうとは思っていなかったので牛の情報なんてさっぱり覚えてない。
10倍だっけ…。500kg…。お相撲さんより重いなあ…。ブフゥと溜息がでる。
ぼんやりと私は座ったまま顔を横向けると…1匹の牛と目があった。
「!?」
私は驚いたがすぐにこれが鏡であることがわかった。座り込んだ位置あたりに鏡が設置してあるのだ。
何故…と思ったがすぐに理由が判明する。これも反省の一環なのだ。
鏡は牛の顔がちょうど入るぐらいの大きさであり、自分の顔が丸々映る。
そこには自分の…牛の顔があり、耳には…女性がつけた私の顔写真がついた鑑札がある。
―藤崎ナオ 15歳 と記載された鑑札から私は目を背ける。
反省っていってもなあ…やってないことを反省しろってのも無理な話じゃないのかな…。
私はこの鏡を毎日見ることを考えると、気が滅入りそうになった。
その一方で「字も読めるんだ」と変なところで冷静に考える。
今、私は牛の脳を使っているのだろうか?石だけになった私はなにも出来ず、ただ真っ暗闇の中で思考もまともにできなかったことを考えると、やっぱり…?と推察する。推察したってどうこうなるものではないんだけど、なにもかもが牛になってしまったという現実から少しでも逃れたかったのかもしれない。
2時間…ぐらいたったのだろうか、日が高くなったのでお昼ぐらいだろう。おじいさんとナオはまだ戻ってこない。
お昼ごはんでも食べているのだろうか。牛は…記憶を探ってみると朝と夕の2回だとわかった。
さらに10分ぐらいして、すごく身体が落ち着かなくなった。
その…トイレに…行きたいのだ。
お腹がとても張ってきて、息が荒くなる。鉄柵がどうにかできないか私は考える。
私は立ち上がり、鉄柵を身体をつかって押してみるがびくともしない。
グルルル
どんどんお腹の鳴る間隔が短くなる。
私は耐えられず、座り込んでしまう。私はきょろきょろ当たりを見まわし、おじいさんやナオが戻ってこないか探す。
グルルルル
どんどん間隔が短くなり、波も大きくなってくる。
私はそこでつい、「牛の記憶」を呼び出してしまった。牛の、その、仕方を。
私は無意識にスクっと立ち上がり尻尾を持ち上げ、そして―。
しばらくしておじいさんとナオが戻ってくる。ナオは作業着に着替えていた。
私は涙を流し座り込んでいた。
「ああ、ナオちゃん、アリスの出したものをコンベアーにのせて回収してくれ」
おじいさんはそう指示すると、ナオは道具を手に持ち、私が出してしまったものをかき集め、コンベアーに載せる。
「アリスちゃん、ごめんね。でもそれでいいんだよ、牛に…その…トイレとか…ないから」
ナオは顔を赤くして言う。
「でも、私、人間になったからわかるけど…恥ずかしいね、これ。ちょっと臭いし」
ナオは何気なく言ってるそのセリフが、私の心を責める。
コンベアーに載せ終わり、清掃し終わったナオが戻ってくる。
「ふー、アリスちゃんたくさん出したねぇ。私、朝からあの小屋に入れられてて、緊張しててできなかったからかなあ、いつもより多い感じだったよ」
私は聞こえないふりをする。
私は人間では考えられない量を出してしまったこともショックだったが、何より、記憶を呼び出した瞬間…私がなにか別のものになってしまったかのように身体を動かしたことに恐怖した。
「私、今日は初日だからもう終わりなんだって。荷物とか片付けないといけないから、また明日くるね」
ナオはそういうと、私の頭を2,3度なでた後、牛舎から出て行ってしまった。
私は座ったまま、涙を流したまま、周りの牛が戻ってきたことにも気が付かずに眠ってしまったのだった。
牛になってからどれくらいの月日が過ぎたのだろう。
昼下がり、放牧中の私は考える。
最初は親や友達に会いたい、学校に行きたいとか、
ちゃんとしたご飯が食べたい…と思っていた私だったが、
最近は慣れてしまったのか、家畜としてのノルマを淡々とこなす毎日を送るようになっていた。
家畜には、人間のように平日、休日の区別が無い。毎日同じことをの繰り返しで必然、曜日・日付の間隔は希薄になる。
放牧中に暑さを大分感じるようになってきたからもうすぐ夏なのだろう、とかそんな大雑把にしかわからない。
2-3ヶ月ぐらいたったのかなあとぼんやり思う。
放牧中は、牛舎のスペースの近い牛同士で固まって動くことが多い。
学校で席の近い同士で仲良くなるようなものだ。
いま私の隣で草を食べてるのが、大地さん。鑑札には35歳って書いてあった。
私と同じ雌牛として刑に服しているのだけど、顔写真も名前もおもいっきり男性だったので私は最初驚いた。
ナオから聞いた話では、刑は後15年残っているらしい。
おじいさんがいってた男性って大地さんのことなのかもしれない。
大地さんの元の身体は、結構太ってて力仕事には向いてなさそうだった。私の身体も向いてはいないけど。
私の少し離れたところで草を食べている佐伯鏡子さん、確か20歳。
事情があって最近生体を移動したんだけど、移された先が生まれたばかりの子牛だった。私より年上の女性が生まれたばかりの子牛になっちゃってるのは、すごく変な感じがするかな。前使っていた身体との違いすぎるのか、はたまた子牛の身体は不安定なのか、よくこけているのを見かける。
もぐもぐと牧草をかじっていると、牧場の牛舎のほうで放送のスイッチが入るノイズが聞こえた。
お昼時…こんな時間に放送が入るのは珍しいけど、なんだろうか。
ジーっという音の後におじいさんの声が鳴り響く。
「―…藤崎さん、藤崎ナオさん。ご家族が面会に来ております」
私はハッとする。
―面会に関しては3ヶ月過ぎてから可能よ。
あの女性の言葉が思い出される。
うちの両親は結構過保護だ。おそらく面会が可能になるその日に面会できるよう申し込んでいたのだろう。
最後まで私の無実を信じていて、罪が決まってしまった時は泣いていた。
私は牧場での慣れの中で薄れていた「親に会いたい」という気持ちがはっきりと蘇る。
お父さん、お母さんに会える。私は元気だよ、私は―。
―ただし、入れ替わっていることは面会者には知らされないわ
女性の言葉の続きを思い出し、私は絶望する。
いまの私の身体をみて娘だと思う親は居ないだろう。
まして目の前にはナオがいるのだ。一瞬足りともそんな思考にはなるはずがない。
私はうなだれる。
私の思考はどんどんネガティブになる。
今のは私は、干し草を食べるときも何度も反芻するために草を吐き出すし、糞尿もしたくなったら出している。獣臭も自分では気にならないがまき散らしているはずだ。
どう考えても、万が一にも、認識してはくれないだろう。
外見はただの1頭の家畜なのだから。
その一方で牛になっていることを知られなくすむ、と安堵している自分に悲しくなる。
気が付くと、私は牧場の事務所の近くまで歩いてきていた。
自分だとわかってもらえなくてもいい、一目だけでも親を見たい…そんな気持ちが私をここまで連れてきてしまった。
事務所の窓からこっそり覗きこむ。こっそりできるほど小さい図体はしてないけども。
ナオが―…お母さんと話していた。お父さんも牧場主のおじいさんと話している。
何を話しているか聞こえないのだけど、お母さんはナオと抱き合い、涙ぐみながら会話を交わしている。
―私はここにいるのに。
私はこらえきれず、鳴き声を出してしまう。
中にいる4人がこちらを向き、私に気がつく。ナオはお母さんの手を引き、窓の近くまで寄り、そして窓を開ける。
「この子が私が世話してる牛で、アリスちゃんっていうの」
お母さんはこちらの値踏みするようにじろりと見回す。
「あ、あら…そうなの。ナオが世話できてるの?すごいわねえ…」
私の鑑札には顔写真や名前が書いてあるが、何も知らない人が見れば担当者が記載されているのだと思ってしまうだろう。
「その……やっぱり近くによると臭いわね」
お母さんはハンカチで鼻を抑え、言い放つ。
私は覚悟はしていたがやっぱりショックをうけた。
モーと小さく声が漏れる。
お母さんは1,2歩後退りする。
「アリスちゃん、お母さんと話してるからまたあとでね」
「私」に窓をピシャっと閉められてしまう。
牛になって3ヶ月、いろいろ慣れてきたと思ったけど、
面会で現状をつきつけられ、ただ目を逸らしていただけだったことに気がつく。
まだ刑は1/4しか終わっていない。残りの9ヶ月というのは決して短くないのだ。
私はため息を付き、事務所から離れようとした時、ナオの大きな、嬉しそうな声が聞こえた。
「え?サキちゃんも来てるの!?」
私は慌てて再度事務所の窓へ張り付く。
「ええ、サキちゃんも会いたいって言ってて。もちろんナオがいいなら、だけど」
いま、サキちゃんのお父さんと車で待ってるのよ、とお母さんは話す。
「ううん、大丈夫、私、サキちゃんに会いたい」
ナオとお母さんは駐車場のほうへと出て行った。お父さんもそれに続く。
私は事務所を回りこむように移動する。久しぶりにこの足の遅さがもどかしいと思った。
私は事務所の正面玄関まで周りこんだ。
その建物の角を曲がれば駐車場が見える…というところでおじいさんが玄関から出てくる。
私を横目におじいさんはぽつりという。
「嬢ちゃん、佐々木牧場の娘さんと友達だったんだなあ」
私は首を傾げる。そういえばサキちゃんの家は大規模牧場経営の商社だって聞いたことがある。
それがどうしたんだろうか。
「ふむ…まあちょっと気になってな。その牛をくれたのが佐々木社長だったからのう」
まあ、考え過ぎかもしれんな。とつぶやいておじいさんは放牧地のほうへ向かっていってしまう。
サキちゃんのお父さんがこの牛の持ち主だった…?
一体どういうことなんだろう。
「ナオ、これがナオの世話している牛?」
私ははっと振り返る。
後ろにはサキちゃんが立っていた。
サキちゃんは短いスカートにハイソックス、そしてちょっと青が入った袖のないTシャツを着て夏っぽい格好をしていた。少し明るい茶色で、ふわふわのウェーブした肩まである髪は3ヶ月前と変わっていない。
小学校からずっと一緒で、運動も成績も私のほうが良かったけど、サキちゃんのほうが可愛いから男の子に人気なのはサキちゃんだった。でも、誰かと付き合うようなことはない、ちょっと変わった子だった。
同じ塾にも通ってて、私が捕まってしまった日の夜も一緒に授業を受けてたっけ…。
3ヶ月も会わなかったことなんてなかった。私はサキちゃんの顔を見て涙ぐんでしまった。
「あはは変なの。泣いてるー、へぇオッパイおっきいねえ」
サキちゃんは私のことで盛り上がる。
ナオはすこし恥ずかしいのか、顔を赤らめつつ、サキちゃんと話している。
しばらく盛り上がった後、
「あ、ナオ、私のお父さんが話あるんだって、事務所にいると思うから行ったげて?」
と言った。
「ちょっと重い話みたいでさ、多分、私が…罰を受けてる子と仲良くするの、あんまよく思ってなくて。でもナオが直接話せばわかってくれると思うの」
私、ココで待ってるから、サキちゃんはナオの両手を握りながら言う。
ナオはちょっと考えた後、「うん、じゃあいってくるね」と手を振り、事務所の中へ入っていった。
私とサキちゃんだけが残る。
サキちゃんはナオが事務所に入ったのを確認すると、こちらを振り向く。
自分の髪をいじりながら、私に近づいてくる。
ゆっくりと両手を差し出し、私の顔を触り、頭を撫でる。
サキちゃんの右手は私の頭からそのまま、耳に向かう。
そして私の耳についた鑑札に触れながら、信じられない一言を発したのだ。
「ねえ牛になった気持ち、教えてよ、ナオ」
私は一瞬身体が固まる。
サキちゃんは今なんて言った?
私の一瞬の動揺をサキちゃんは感じ取ったようだ。
「うふ、やっぱりナオなんだ、よかった」
サキちゃんは私から手を離して微笑む。
「普通の牛と比べると、目の動きとか人間っぽいからわかりやすいのね」
サキちゃんは私が入れ替わってることを知ってる…?
―ただし、入れ替わっていることは面会者には知らされないわ
確かにあの時女性はこう言った。
代替労働という言葉は知っていても刑の中身は一般には知られてないはず。現に私はこの牧場に来るまで、代替労働の具体的な中身を知らされることはなかった。
「ナオは代替労働が世間一般に知られていないの、不思議だと思わない?この牧場でさえこんなに受刑者がいるのに。受刑者はいつか社会へ戻る。そこから代替労働の中身が漏れても不思議ではない―よね」
サキちゃんは私の心の中を読んだかのように疑問に答えていく。
「自分が今、どうやって見て、聞いて、感じているのか、ナオは考えたこと無いかな。今のナオはアリスの脳をつかってるの。石はね、借り物の脳で人間の思考ができるよう手伝ってるだけ」
「ナオが刑を終えて、ナオが石から人間に戻る時、牛になってたことは忘れちゃう…記憶は牛の脳に置いてきぼりにするの。―感情を除いて」
―感情?悲しいとか、楽しいとかそんなことだろうか。
「受刑者たちは家畜でいた間の後悔、反省、懺悔という感情を持ち帰る。そして人間の身体には家畜が代わりに人間として働いた記憶が残されていて…そこで記憶の調整がされるの。
その結果、牧場で一生懸命、脱走もすることなく働いた真面目な模範囚…ができあがるというわけよ。こうすることで代替労働の詳細は一切漏れることがないの。―関係者以外にはね。」
人口減、犯罪増な世の中にはぴったりな制度かもね―。とサキちゃんは締める。
関係者―。そうか、代替労働をおじいさんが知ってるのと同様、サキちゃんのお父さんも知っているのだ。
サキちゃんが私の正体を知っている…と認識してから私は急に恥ずかしくなる。
私はその…裸同然なのだし、おっぱいなんてずっと出しっぱなしだし…丸々と太っている牛なのだ。
私はサキちゃんから視線をそらし、後ずさりをする。
「ね、搾乳、どうだった?やっぱり気持ちいいの?」
サキちゃんは後退りする私に追いつき、お腹を覗きこむように言う。この身体ではサキちゃんから逃げることも、胸を隠すこともできない。
私は恥ずかしさのあまりモーと鳴き声を出してしまい、ハッとしてすぐ黙り込む。
「モーだって。ほんと牛さんなんだね」
サキちゃんは「さて…」といって立ち上がり、スカートの後ろをパッパッと手で払う。
「私ね、ナオに言わなくちゃいけないことがあるの」
サキちゃんは急に話を変える。
私は首を傾げる。
「私、好きな人がいたの。ずっと同じクラスで、部活動も一緒で、塾も一緒だったの」
私の背中を撫でながらサキちゃんは話し始める。
「その人と一緒にいるだけで幸せだったわ。将来、私が例えその人の一番じゃなくても、離れることになっても、幸せに過ごしてくれるんだったらいいって思ってたの」
でもね、とサキちゃんは続ける。
「その人が学校で、告白されるのを見て、それが嘘だって分かっちゃったの」
サキちゃんは私を撫でる手を止め、私の正面に立つ。
「その時はその人は断ってくれたけど、いつか私から離れて行く時が来る。それに私は耐えられないって、気がついちゃったの。私は、いつまでもその人と一緒にいたい。離したくないの」
サキちゃんは手を後ろに組んで数歩さがる。
私はサキちゃんが何を言いたいのか、理解ができない。
サキちゃんは目を閉じて、ゆっくりと、言葉を紡ぐように話す。
「その頃ちょうど代替労働について知って、考えたの。これを使えばその人から誘惑するものを排除して、私のものにできるって」
サキちゃんはゆっくりと目を開く。
「だから、その人のカバンと飲み物に…入れたの」
私の頭のなかが真っ白になる。
サキちゃんは何を言っている?いれた?何を?いつ?誰に?
「ナオ。私ね、ナオのことが好きなの」
―ナオのことが好きなの
私の思考は追いつかない。サキちゃんが私のことを…好き?
サキちゃんの今、言った「好き」が、友情の「好き」ではないことは流石の私にも分かる。
いや、そもそも私のカバンに薬をいれたのはサキちゃんだった…?
私はあの逮捕される日の1週間前、別のクラスの男の子に告白されたのを思い出した。
恥ずかしながら私は告白されるのは初めてで―いつも告白されるのはサキちゃんばっかりだったし―付き合うこと自体に不安を感じて、お断りしたのだった。
それをサキちゃんが見ていて…?そんなことで、私をこんな目に合わせた?
「私、ナオとずっと一緒にいる為にはどうしたらいいのかなって考えたの」
サキちゃんは微笑みのまま話し続ける。
「考えて考えて…」
「ずっとうちの牧場にいてくれればいいんだって、気がついちゃったの」
私は理解した。サキちゃんは…おかしい。
「最初は、お父さんの牧場に来ると思ってたの。でも、違う場所の牧場になるって聞いて、慌ててお父さんに頼んで、うちのアリスをここに手配したの」
ちゃんとアリスになってるかどうか分からなかったから不安だったけど、と続ける。
「今日、アリスを世話してるって聞けて、私嬉しくて」
サキちゃんは微笑を崩さない。その微笑みは今の私には不気味にしか感じられない。
「代替労働中、基本的には牧場間の移動はできないんだけどね」
サキちゃんはカバンから紐を取り出す。
「家畜の貸し借りをしてた場合は別なの。持ち主が返却を要求したら、原則として返すことになってるのよ」
私に紐をくくりつけようと近寄ってくる。私は紐から逃れようとするが、牛の身体では抵抗ができず、あっさりと紐を括りつけられる。
「今日、お父さんがアリスちゃんを返してもらえば、私の牧場に来ることになるわ。もちろんナオの身体も、一緒に」
サキちゃんは紐を見つめ、うっとりと目を細める。
「私、牛のナオも愛せるわ。ちゃんとお世話してあげるね」
エピローグ
私の名前はアリス…だった。
3ヶ月前のあの日、私がナオとして動いた瞬間、人間の知能というものがいかに高度なものなのかを知った。
そしてナオとして生活してきた今、草を食べるだけの毎日だった家畜の人生がどれほどつまらないものであるかも知ってしまった。
最初は私の代わりをすることがなぜ罪を償うことになるのか、理解できなかった。
でも今なら分かる。
人間から見れば家畜なんてただの食料生産の手段なのだ。
人間に全てをコントロールされる。
狭い小屋に閉じ込められ、用意された草を食べ、たまに雄をあてがわれ、子を生む。
この繰り返し。これは牢獄だ。
それに比べてなんと人間の自由なことか。
本能のままに糞尿をところかまわず垂れ流し、食べるだけ食べ、搾乳であえぐアリスを私は蔑んで見るようになった。
戻りたくない。牛になんか戻りたくない。アリスがずっと牛として生きてくれればいいのに。
だが結局この入れ替わりも別の人間がコントロールしていることで、私はこれに抗うことはできない。
今の私は犯罪者の身であり、街へ逃げ出してもあっという間に捕獲されるだろう。
周りの仲間が言うには現に1年に何人かは脱走をするらしい。だが逃げおおせた者はいないという。
この入れ替わりの石自体が、なんらかのレーダーに反応するせいなのだと。
石を外せない以上、レーダーは避けられず、結果脱走は無駄な抵抗となるわけだ。
乳牛の数年という寿命の中でわずか1年人間として生きる、これのなんという残酷なことか。
一度味わってしまったこの感覚は、失うにはあまりにも惜しかった。
「君は、ずっと人間でいたくないかい?」
男は私に話しかける。
男は私の最初の飼い主であり、サキの父親だ。
男は入れ替わりを知っていた。そして、私の心境も。
「娘はナオちゃんの全てを、手に入れたいらしくてね。そのために、君が人間で居続けることに協力したいと思っている」
男は私の前に片手を差し出す。
「今後、娘の言うことには従う、という条件付きだが。どうかね?」
男は差し出した片手を少し振る。
とんでもない親だな、と私は思う。娘のわがままのために、女の子1人の人生を踏みにじろうとしている。
「なに、簡単な事だ。9ヶ月後、石を戻すように見せかけて、君は元に戻ったように演技をすればいい」
私はなぜ彼女を牛のままにしておくのか、聞いた。
「娘は、ナオちゃんを尊重したいと思っている。その一方で支配したいと思っている。そんな娘の気持ちを同時に叶えてやれるなら私は本望だよ」
この男も、娘も…いやそもそも人間がおかしいのかもしれない。
そしていまは私も人間なのだ。おかしくてもしょうがない…のだ。
私は男の手を握った。交渉成立だ。
-終-